養秀同窓会
「震天動地」の大のぼり
「震天動地」の大のぼり:大正10年(1921年)9月23目、第七高等学校主催の南九州中等学校野球大会に招かれ、4回戦の決勝で名門鹿児島商業を4対2で下し優勝。<br>9月28目、山口校長の筆になる「震天動地」の大のぼりを押し立てて帰沖の選手たちを港に迎え、学校まで市中行進した。<br>翌29日祝賀茶話会を催し、夕刻、提灯行列をした。<br>意気大いにあがり、あとあとまで語り草となった。
大正10年(1921年)9月23目、第七高等学校主催の南九州中等学校野球大会に招かれ、4回戦の決勝で名門鹿児島商業を4対2で下し優勝。
9月28目、山口校長の筆になる「震天動地」の大のぼりを押し立てて帰沖の選手たちを港に迎え、学校まで市中行進した。
翌29日祝賀茶話会を催し、夕刻、提灯行列をした。
意気大いにあがり、あとあとまで語り草となった。
扁額「海邦養秀」が精神の象徴だったら、大のぼり「震天動地」は県立一中生にとって青春のシンポルであった。
それはあたかも首里や那覇の大綱曳で各町が持つ旗頭(はたがしら)が参加者や観衆の血を湧かせたように、生徒の士気を大いに鼓舞した。
恐らく当時の中学生はこの旗頭が念頭にあって、大のぼりの応援旗になったのではないか。

一中には白地に赤く横一に中の字を書いた応援旗があって、ふだんはそれを使用していた。
またリーダーたちはその小旗を使って拍子をとっていた。
だが、いざ本番になると応援団長が震天動地の大のぼりを持ち出すのである。
それは生徒にとっては軍旗みたいにも見え、応援歌の“御神体”にも映った。

この大のぼりは大正7年(1918年)山口沢之助校長の揮毫になるものであるが、その時の状況を当時の応援団長宮城敏男は次のように記している。

「応援旗に何か書いてもらおうと思って、その揮毫を山口校長に講堂でお願いした。「なんと書くか」と間われたが、こちらも決まった文句を持ち合わせていなかった。先生はしばらく考えておられたが、ヨシ!と自信たっぷりで筆を執られた。一筆ごとに息を頬一杯におふくみになって一気に一字を書き終るとパッと息を吐き出された。かくして一字一字と歴史ある「震天動地」は墨痕鮮やかに生れたのであった」(養秀百年「大正期」より)

一中の応援団は二の大のぼりを押し立てて対抗野球試合に意気揚々出かけていくのであるが、その後これは一中の伝統となった。

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